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『ザ!世界仰天ニュース』

ザ!世界仰天ニュース』 日テレ (水)21:00~
公式HP:http://www.ntv.co.jp/gyoten/
ゲスト:千原兄弟 友近 井上和香
●『千原ジュニア 生と死のストーリー』
1997年。
大阪でカリスマ的人気を誇っていた千原兄弟は鳴り物入りで東京に進出したが、すぐに壁にぶち当たった。
東京には知り合いもなく、仕事もない。
そこで千原兄弟は小さな会場で、トークライブを始めた。
やがて先輩芸人にも認められ、ライブにも客が入り始め、テレビにも少しずつ出始めるようになった。
東京に来て4年目の2001年、ついに苦労が実り、深夜のレギュラー番組が決まった。
自分のコーナーに張り切るジュニアは仕事の移動にローンで買った大型バイクを使っていた。2001年3月25日、春の日差しが気持ちいいので、ジュニアはヘルメットを半キャップ型に変えた。
翌3月26日、出演依頼が来た番組からの事前アンケートを書き上げ、夜遅くに愛車のバイクで家路につく途中の事故だった。
朦朧とした意識の中で目を開けた。体が動かない、力が全く入らない。
そして再び意識を失った。
意識を取り戻したジュニアは、寒さで震えていた。
顔面が直接石柱に激突した為鼻を骨折、あごは真っ二つに割れていた。
左頬も骨折、そして前頭骨の骨折、おでこの神経も切れていた。
さらには眼球の受け皿である眼窩低と内壁を骨折したことで眼球が下に下がっていた。
頭を激しく打ち、意識が戻らないということは脳を損傷している可能性が高い最悪の場合、待っているのは死―――。
検査の結果、脳には全体的な腫れがみられ、髄液が漏れていることがわかった。
危険な状態だった。
事故の一報はすぐにマネージャーから兄のせいじに伝えられた。
が、せいじはそのとき、ある女性とデート中だった。
マネージャーに、面会謝絶で家族しか入れないのですぐに病院へ行ってくださいといわれるも、状況がよく分からず、しかも女の子を口説いている最中。
病院へは行かなかったのである。
京都の実家にも連絡が入った。
朝一で母が向かうことにしたが、母に強く言われせいじは仕方なく病院へ向かうことにした。
せいじが病院に到着したときには夜が明けていた。
弟の姿を見て初めてことの重大さに気づいた。
それは、せいじの想像をはるかに超えた状態だった。
顔は腫れ上がり弟なのかどうなのかすらわからない。
数時間後、京都から母も到着。
顔面の傷から感染が広がらないよう無菌状態の集中治療室にいた。
ジュニアは「ごめんな」それだけ言うとまた意識を失った。
医師によると意識が安定せず、たいへん危険な状態で、この状態が続くようであれば最悪のことも覚悟する必要があるという予断を許さない状況だった。
だがせいじは、なぜか「こいつは死なん」そんな予感がしていた。
マネージャーは今日の仕事をキャンセルしようとせいじに申し出たが、仕事の責任もあるし自分は大丈夫だからと仕事に向かった。
翌日も意識は戻らなかった。
1974年、ジュニアは次男として生まれた。
4歳上に兄せいじ、4歳下に妹がいた。
幼い頃から人と同じ事をすることが嫌いだったジュニアは学校では禁じられているステッカーだらけのランドセルを肩からかけて登校し、みんなが赤やオレンジで書く太陽を紫で書く子だった。
それを見た母はそれも個性と思っていた…が、母はしばしば学校から呼び出しをくらい、一人だけの授業参観をさせられたこともあった。
ジュニア自身、自分は他の子たちとは違うと感じ、孤独だった。
だから同級生が、殴られたと知るとすぐに仇を討ちに行った。こんな形でしか友達への思いを伝えられなかった。
けんか相手の親が怒鳴り込んでくることも度々。
両親はひたすら謝った。
それでも決して息子を頭ごなしに怒ったりはしなかった。
兄のせいじはこんな弟がなんとなく自慢で二人は仲のいい兄弟だった。
問題児だったジュニアは周囲を見返そうと、中高一貫教育の名門校に合格。
母は報われた気がした。
だが、それは中学3年生まで、突然学校に行かなくなったのだ。
”引きこもり”。
自分自身の居場所が学校にはなかった。
母は自分が息子を追い込んでいるのではないかと悩んだ。
常に話しかけ、目を離さなかった。
学校や友人が嫌なら知り合いがいない京都以外の学校へ転校させようと見学にまで連れて行ったがジュニアは拒否した。
結局学校に掛け合い、どうにか高校に進学させてもらったが、引きこもりは続いた。
そして時に…激しく感情をぶつけ、そのたびに暴れる。
壁を壊すことも…親としてこれ以上どうすればいいのか?
そんなジュニアを救うことになる一本の電話。
すでに高校を卒業し、家を出て吉本の養成所に通っていた兄せいじから、コンビを組もうという誘い。
なんとなく兄を訪ね、養成所で見たお笑いの世界。
ジュニアの心が動いた。自分の居場所が見つかった…その思いをすぐに親に伝えた。
両親は強く反対したが、ジュニアの意思は変わらず、根負け。
学校をやめ、15歳で家を出た。親としてやれることはただ見守るだけ。
母は3年間ライブに足を運び応援を続けた。
やがて大阪での人気を不動のものとし、トークライブで全国ツアーを組むほどに。
そして、千原兄弟は東京へ。
人気番組にも出るようになり、テレビの活躍を見ることで両親の不安は消えていった。

そんな矢先の事故だった。
ただそばにいて、ただただ祈り、意識が戻るのをひたすら信じて待つ母。
そして事故から4日目。
ついにジュニアは目を覚ました。
意識を取り戻した3月30日、それはジュニア27回目の誕生日だった。
そして、また意識を失った。
母の必死の呼びかけにもう一度、目を覚ました。
そのときジュニアは「…写真撮って」と口にし、その時母によって写真が撮られた。
当時の写真
日付は誕生日の3月30日。
全身に管が通され、顎を固定するため奥歯が針金で止められていた。
母は写真を撮ってと言った息子に生還を確信した。
そして、医師からの脳にも脊髄にも損傷はなく、後遺症の可能性も低い。
山は越えたという嬉しい知らせが。
しかし問題は顔だった。顔の左半分が壊滅的なダメージを受けていて元に戻すのは不可能だった。母としてはどんな姿でも生きていてくれればいい。
だが息子は現実をちゃんと受け止められるか?
14歳で引きこもった時息子を救ったのは芸人になる道。
それが今閉ざされようとしている。
意識の戻ったジュニアは一般病棟に移された。
そしてあることを思い出した。
それは事故の1ヶ月ほど前、トークライブでも語ったあるエピソード。
そう、1ヶ月ほど前にも全く同じような状況の事故を起こしていたのだ。
あの時は、笑いで済んだ程度の怪我だったが…今度はそうは行かないだろう。
そして母にこう告げた。
ジュニア「鏡、鏡見せてくれ」覚悟していたこととはいえあまりに酷い顔だった。
終わった。
もう人を笑わせることなんてできない。
色んな思いが巡る。
相方のせいじを、事務所を、応援してくれているファンを裏切ってしまう。
血が混じった赤い涙が流れた。
死んだ方がマシだ。これ以上体は動かない。
死ぬことすらできないのか!そして医師はある事実をジュニアに伝えた。「ヘルメットが半キャップでよかった。もしフルフェイスのヘルメットだったら、顔にキズ付はなかったでしょう。でも、衝撃が全て首にかかって即死していたでしょう」
しかしジュニアの思いは別だった。
なぜあの日、フルフェイスのヘルメットを被らなかったのか。
そうすれば死ねたのに…。
ショックから立ち直れないジュニア。
体は回復していく一方で母は目を離せなくなった。
自分の目の届かないときになにかあったら…。
面会時間を過ぎても病院を離れられない。
ジュニアにとって長い夜は耐えられない時間。
母も同じだった。
愛するわが子が苦しんでいる。今、息子を支えてやれるのは自分しかいない。
自分まで落ち込んでいるわけにはいかない。
ただ天井を見て息をするだけの日々のジュニア。
そんな時、世話になっている先輩芸人が突然病室に現れた。
そして「何してんねん、早よ帰って来い」それだけ言うと出て行った。
土産の雑誌はなぜかバイクの特集だった。
その翌日、今度は別の先輩が現われた。
またバイクの雑誌。
次の日も先輩が尋ねてくる。
何も食べられないジュニアにグルメ漫画。
そして後輩が渡したビデオは亡くなったバイクレーサーを描いた映画。
さらに、笑うこともままならないジュニアにすごい笑顔の写真を持ってきた先輩。
毎日大勢の芸人仲間が訪ねてくる。
それは、多忙を極めるそうそうたるメンバーだった。
(松本人志、板尾創路、今田耕司、東野幸治、木村祐一、山崎邦正、ジャリズム、藤井隆)
皆、励ましの言葉など口にしなかった。
ただいつものようにきそって面白い話をするだけ。
彼らの優しさが痛いほどわかった。
病室に来てくれた一人ひとりの顔を思い浮かべた。
やっぱりみんなのいる世界に戻りたい。
徐々に生きる気力がわいてきた。
一方、兄のせいじは、事故当日以来、一度も姿を現さなかった。
マネージャーに聞くと兄貴は一人でトークライブ頑張っているという。
ジュニアは絶対死なないと信じていたせいじは、ジュニアが帰ってくる場所を必死に守っていた。
それはジュニアにも伝わった。
そして顔を取りもどす手術を受けることになった。
呼吸を確保するためするため喉を切開して人工呼吸器、前頭骨、頬骨そして真っ二つに割れた顎を上下からチタンのプレートで固定し、やがて自然にくっつくのを待つ。
顔には計12枚ものプレートが入れられた。
10時間にも及ぶ大手術。
何度もメスを入れることは体に負担がかかる為、医師数名が終結し、一気に行われた。
顔に埋められた12枚のプレート。これらは今もまだ残っている。
母はしばらく喋れない息子のために50音表を作った。
その後退院し、自宅療養を始めることになったのだが、松葉杖での生活は目のピントもまだ合わず、すぐに疲れる。
当時の写真
あごを固定され、豆腐だけをすする日々。そんなジュニアを支えたのは芸人仲間だった。
一人きりにしてはいけない。毎日交代で訪ね、楽しませた。
命を脅かすほどの大怪我。完全に顔を取り戻すにはあと1年半はかかるが、ジュニアはそれまで待っていられなかった。
もとの世界に戻るため、自ら志願した。
事故から136日。
復活の舞台は千原兄弟の原点であるトークライブ。
その当日。事故当日以来の兄との対面。
初めて見る弟の顔に実はせいじは動揺したという。
いつも通り一言も交わさないままライブは始まった。
事故から136日、ジュニアは戻ってきた。
ジュニアはもとの世界に戻ってきた。


ジュニアさんのパートだけ見ました。
ジュニアさん本人もつらくて苦しかったんだろうけど、家族、特にお母さんの心中も相当なものだったんだろうと察せられて、思わず胸が締め付けられてしまいました。
ジュニアさんが復帰できてよかった。心からそう思います。

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