スポンサーリンク

『カンブリア宮殿』 12月15日

カンブリア宮殿』 テレ東(月)22:00~
公式HP:http://www.tv-tokyo.co.jp/cambria/bn/index.html
出演者:村上龍、小池栄子、柳井正
◆カンブリアFile No.127 ファーストリテイリング会長兼社長 柳井正
●『不況の王者ユニクロ フリース誕生秘話
1972年、東京の大学を卒業した柳井は故郷・山口に戻り、実家の紳士服店で働き始めた。
それは典型的な地方の商店街の店。品揃えも売り方も旧態依然としていた。
その頃、柳井はアメリカに視察に出かける。
立ち寄ったのは大学の生協。
中には、本や文房具、さらには衣類まで、学生が欲しい品物がなんでも揃っていた。しかも接客しないセルフサービス。
客は本屋で立ち読みする感覚で商品を選び、気に入ったものがなければ気軽に店を出て行く。
それを見た柳井は閃いた。
”雑誌を買うように気軽に洋服が買える店を作ろう”
帰国した柳井は1984年、広島にカジュアルファッションの店をオープンさせた。
その名も「ユニーク・クロージング・ウエアハウス」。
これこそユニクロの第一号店だ。大量の商品を整然と並べ、客に自由に選ばせるというスタイルが大ウケ。
その後、ユニクロは街の中心や郊外に国道沿いに次々に店を展開。見る見る勢力を拡大していった。
しかし、柳井はある悩みを抱えていた。
当時のユニクロは他の店と同じく、メーカーから商品を仕入れて売るだけ。売れ筋の商品は回してもらえず価格もメーカーのいいなり。自由な品揃えなどとても出来ない状況だった。
そこで柳井は中国での自社生産に乗り出した。
返品がきかないというリスクは負うが好きなものは作れる。
自社生産の体制を整えた柳井はユニクロ最大の勝負に打って出た。
それは東京進出。
しかも場所は若者ファッションの聖地・原宿。ここで成功するためには今までになかった新たなファッションアイテムが必要だ。
開発4年、柳井が満を持して打ち出した商品。それがフリースだ。
そして、いよいよ原宿店オープン。
すると発売と同時に人々が殺到。
カラフルで今までにない商品の上に、値段も1900円と超格安。フリースブームは日本中に広がっていった。
その人気は爆発的で、ピークの2000年には2600万枚を売り上げる大ヒット商品となった。
山口の小さな店から出発した柳井の夢はフリースの大ヒットによって遂に実現した。
●『激安だけじゃない!ユニクロ式ヒットの法則
1998年、空前のフリースブームでユニクロの名前は全国に知れ渡った。
「ユニクロをカジュアルの世界で国民ブランドにしたい」そう豪語した柳井。
しかし、2002年、上場以来初の減収減益。
ブームは長くは続かなかった。
フリースに飽きた消費者たちは手のひらを返したようにユニクロから離れていった。
最大の壁に直面した柳井。それをどう乗り越えたのか。
そのカギとなったのが中国の工場だった。
製造の中心を中国におくユニクロ。その強みは安いコストだった。
柳井は安さだけではなく品質を高めることが不可欠だと考え、その役目をある男たちに託した。
小西英典(60歳)。人呼んで縫製の匠。
大手スポーツメーカーで有名選手の特注ユニフォームを作ってきた。
シドニーオリンピックで高橋尚子が着ていたのも小西が手がけたものだった。
もう一人、飯田和秋(59歳)。
繊維会社に21年勤め、ありとあらゆる生地の特性を知る素材の匠だ。
匠たちの努力で品質は着実に向上していった。
品質は良くなったが、消費者の目を再びユニクロに向けさせるには何か強烈なインパクトが必要だ。
柳井はそれをある男に託す。
アートディレクターの佐藤可士和だ。
佐藤は企業のシンボルや商品パッケージなど、ブランドイメージを決めるデザイン戦略を得意としている、日本を代表するクリエイターだ。
柳井からブランド戦略を託された佐藤。
ユニクロは大きくなりすぎて目指す方向を見失っているのではないかと感じていた。
ユニクロを変えるにはフリースを超えるインパクトが必要だ。
佐藤はフリースの聖地・原宿店を思い切ってTシャツの専門店に改装した。
そこには佐藤ならではの仕掛けがあった。
まるでコンビニのドリンクコーナーのようなディスプレイ。ボトルを開けると様々な柄のTシャツが出てくるという仕組みだ。柄は常に500以上。しかも毎月新作を投入して新鮮さを出す。
普段着のTシャツこそ楽しんで選んでもらおうというのが佐藤の狙いだった。
高品質の普段着をリーズナブルに。
原点を取り戻したユニクロはヒット商品を連発。
この夏、ブラトップは100万枚売れれば大ヒットという業界の常識を覆して300万枚を完売。
さらにこの冬、ヒートテックは全世界で2800万枚の販売を見込んでいる。
不況などどこ吹く風、今日もユニクロには大勢の客が集まってくる。
●『ユニクロ”失敗”の歴史 成功に活かす極意
今やカリスマ経営者と呼ばれる柳井。しかしその歴史は失敗の連続だった。
【ユニクロの失敗①】
2001年、ロンドンに進出。
大ヒットのフリースを引っさげて初の海外進出に、柳井は自信満々だった。
当初はイギリス国内に50店舗を展開する計画だった。
しかし、わずか1年半で3分の2の店を閉鎖するはめに。
その損失は30億円。
【ユニクロの失敗②】
2002年、野菜の販売に乗り出す。
ちょうど安全安心ブームの走り。それに乗ったわけだ。
だが当時はデフレの時代、他の店より2割ほど高いのが仇となった。
その上、売れ残った野菜は腐る。腐らない衣料品で培ったユニクロのノウハウは通用しなかった。
その損失は28億円。
【ユニクロの失敗③】
バーニーズ・ニューヨークといえば85年の歴史を持つアメリカでも名の知れた高級デパート。
柳井は2007年、この老舗を約1000億円で買収すると表明。ユニクロが高級路線に打って出ると話題になった。
しかし柳井は突然買収を断念すると発表。
競争相手が現れて買収価格がつりあがったことが断念の理由だった。


◆村上龍の疑問
Q.『経営者は「一勝九敗」で許されるのか』
A.”ちょっと優秀な経営者”は連戦連勝。でも連戦連勝なら新しいことをやっていないか本当に失敗した原因を分析していない。
新しいことをやっていったら失敗して当然。一勝九敗でもいいくらい。
”優秀な経営者”は連戦連敗でいいんだと思っている。
9回失敗して、そこで本当に冷静に真剣に考えて次に成功させる。
失敗しても会社が潰れなければいい。
早く失敗して早く考えて早く修正する、それが成功する秘訣だと思う。

タイトルとURLをコピーしました