『理由ある太郎』 フジ(金)23:00~
公式HP:http://wwwz.fujitv.co.jp/b_hp/riyu/index.html
出演者:内村光良、秋元康、西川史子、水嶋ヒロ、森泉、おぎやはぎ、アンタッチャブル山崎、小島よしお、ザブングル、ブラックマヨネーズ、
●『「サッポロポテトの「バーベQあじ」が生まれた理由』
そもそも、サッポロポテトは1972年に小麦粉の生地に「ジャガイモを練り込む」という手法で作られ大ヒットしたお菓子なのです。
このヒットから2年後の1974年、サッポロポテトの新しい味を開発しようと、日本のお菓子史上初の「お肉を生地に練り込んだスナックを作れないか?」ということになり、「お肉」と「ジャガイモ」の組み合わせから「カレー味」をイメージし、開発が進められました。
そして、そこにカレーの材料である「玉ねぎ」をさらに加え、それらを生地に練り込んだスナックにカレーの「スパイス」を振り掛けることで「絶妙かつ独特な味」に仕上がったのです。
しかし、ここで問題が起こりました。
それは「カレー味」という表記。
「カレー」は各家庭で味付けが異なり、お客さんが味を正確にイメージしにくいのでは、と考えられたからです。
「何味と表現したら分かりやすいのか…」開発者たちは、悩んだ末に、ある結論にたどりつきました。
「肉や野菜を使った料理…それはバーベキューじゃないか!」
当時、日本でアメリカ文化が流行していたことや、アメリカではバーベキューは家庭料理の定番であったことから、開発者たちはこの結論を導き出し、カルビー独自のイメージで「バーべQあじ」と名付けたのです。
そして、バーベキューの時に使用する「焼き網」をイメージして、お菓子の形を網状にすることによって独特の食感を生み出し、大ヒット商品になったのです。
●『電話をかける時「もしもし」と「もし」を2回言う理由』
「もしもし」の「もし」は「申します」の略語なのですが、それを2度繰り返して言うのは、実は「自分は妖怪ではない」と証明するためなのです。
かつて、日本では妖怪や幽霊が人に声を掛ける時には、1回しか呼ばないという言い伝えがあり、その声に返事をすると魂を奪われてしまうと考えられていました。
そのため、夜道で人に声を掛ける時など相手の姿がよく見えない状況で他人に話しかける時は、自分が妖怪や幽霊でないことを証明するために2度繰り返して呼ぶのが礼儀だったのです。
明治時代にも地方ではこのような風習が残っていて、民族学者の柳田國男氏によると、「佐賀地方の古風な人たちは人を呼ぶときは必ず『もしもし』と言って『もし』とただ一言言うだけでは、相手も答えをしてくれなかった」と書き残しています。
相手の姿が見えない電話で「もしもし」と2回言うのも、こうした風習が影響してると考えられています。
●『男を振り回す小悪魔ちゃんが本気で男性を好きになった理由』
【「小悪魔」と言われる、山田明香さん(24歳)】
Q.あなたは「小悪魔」ですか?
A.違います。いい子です。
Q.男性からのプレゼントはどんな物が?
A.携帯電話、ブルガリの指輪、免許教習代、ピアス、家の家賃、車
Q.彼を本気で好きになった理由は?
A.優しさ。プレゼントの金額の「0」の数が違う。
【「小悪魔」の山田さんが本気で好きになった男性、健吾さん(25歳)】
Q.彼女の良い所は?
A.小悪魔な感じでエロさセクシーさもある上、お弁当を作ってくれる優しさがある。
【「小悪魔」と言われる若狭花絵さん(24歳)】
Q.あなたは「小悪魔」ですか?
A.違います。
Q.彼を本気で好きになった理由は?
A.私を一番に考えてくれる所
【「小悪魔」の若狭さんが本気で好きになった男性、イ・クワンスウさん】
Q.どちらから告白した?
A.彼女に仕向けられ告白してしまった。
【「小悪魔」と言われる村上貴子さん(23歳)】
Q.あなたは「子悪魔」ですか?
A.善人です。
Q.男性からのプレゼントはどんな物が?
A.エルメスのバッグ「バーキン(140万円)」「ボリード(60万円)」、ブルガリのネッ
クレス(12万円)。
「ブランドが好き」「欲しい」などと話すとプレゼントしてくれた。
Q.彼を本気で好きになった理由は?
A.顔などルックスが好みのタイプだったから。
本気で好きになった相手にはメールを1日何十通も送る。
Q.彼に何か買ってもらった?
A.本気の男性には金銭的に無理をさせたくない。
【「小悪魔」の村上さんが本気で好きになった男性、大谷健人さん(25歳)】
Q.彼女に初めて会った時の印象は?
A.インパクトがあってよく話す人。さらにキレイなので「いいな」と思った。
●『「演歌」が「演歌」という名前になった理由』
明治時代、庶民には政治に対する「言論の自由」がなく、国を批判するような内容の演説は「集会条例」という法律によって厳しく処罰されていました。
「どうにかして自分の主張を聞いてもらいたい、しかし、街頭で演説をすると捕まってしまう…。」政治に熱い思いを持つ若者達は悩みました。
すると、ある若者が閃きました。
「自分達の主張を歌にすればいいんじゃないか!」と。
「集会条例」では歌詞はどうであれ、街頭で「歌」を歌う事に関しては取り締まることは出来なかったのです。
この演説を歌にする若者たちを「演歌師」、彼らが歌う歌は「演説歌」と呼ばれ、のちに省略され「演歌」となったのです。
その後、昭和に入ると人々の関心は政治運動からモダンな文化に移り、堅苦しい「演歌」を聞く人は少なくなっていきました。
そこで、演歌師たちは政治批判とは全く関係の無いような「哀愁漂う世態人情」を歌うようになり、再び庶民の関心を集め、今の日本の大衆音楽のひとつのジャンル「演歌」が定着していったのです。