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『カンブリア宮殿』 12月8日

カンブリア宮殿』 テレ東(月)22:00~
公式HP:http://www.tv-tokyo.co.jp/cambria/bn/index.html
出演者:村上龍、小池栄子、青木功
◆カンブリアFile No.126 プロゴルファー青木功
●『世界のアオキ66歳 現役続行中
 11月、岡山県で開催された鬼ノ城シニアオープン。
そこに青木の姿があった。
青木功、66歳。
その主な戦いの場は50歳以上の選手が競い合うシニアの戦いだ。
シニア大会では50代の選手が断然有利。60代の選手が勝つのは難しい。
しかし、この大会青木は絶好調。最終日は66で回った。
青木にとって2度目のエージシュート(自分の年齢以下の打数で18ホールまわること)を達成。
トップタイでプレーオフに持ち込んだ。
プレーオフの相手は愛弟子の渡辺司。
レギュラーツアーから移ってきたばかりだ。
プレーオフ4ホール目、渡辺のパットが外れた。
そして青木がこのパットを沈めて、通算85回目の優勝を飾った。
それは自らが持つ最年長記録を更新しての優勝だった。
 日本のプロゴルファーは約4600人。
そのうち、試合で賞金を稼ぐトーナメントプロは約2100人。
その中で常に試合に出られるのはシード権を持つ賞金ランキング70位までの選手だけ。
さらに通算25勝以上を上げ、国内の全ての大会に出ることが出来る永久シード権を持つのは青木功ら7人しかいない。
トッププロは年間2億円近く稼ぐ事もあるが、シード権ギリギリの選手はその10分の1にも満たない厳しい世界だ。
 青木のゴルフ人生は中学時代、キャディーのアルバイトをしたことに始まる。
プロテストに合格したのは22歳。成績はビリから2番目。
初優勝したのは7年後。むしろ遅咲きの選手だった。
しかし、その後、青木はジャンボ尾崎、中島常幸とともに日本のゴルフ界を牽引し続けた。
青木の名を世界に轟かせたのが1980年の全米オープン。
帝王ジャック・ニクラウスを相手に一歩も引かず、4日間に渡る死闘を演じた。
結果は2位に終わったが、この瞬間、青木は世界の青木となった。
そして、その名を不動のものにしたのが1983年のハワイアンオープンだ。
青木は最終日17番ホールを終え、首位に1打差の2位。
しかし最終18番ホールで奇跡が起きる。
第3打がカップに入った。
逆転イーグルで優勝。日本人男子が初めて全米ツアーで勝利した瞬間だった。
●『妻の怒号が救った伝説の全米オープン
 2004年、青木は日本人男子プロゴルファーとして初めてゴルフの殿堂入りを果たした。
そのスピーチで青木はこう述べた。
「サム・スニードはこの世で勝てないものは3つある。雷とベン・ホーガンと下りのパットだ。と言ったそうです。私にとって下りのパットはさほど怖くはありませんが、ジャックとチエにはいまだかつて勝てません。」
世界の青木、その傍らには常に妻・チエさんの姿があった。
妻としてビジネスパートナーとして全ての面で青木を支えてきた。
 1980年の全米オープン。
青木は帝王ジャック・ニクラウスと優勝争いを繰り広げた。
最終日、ともに首位タイでスタート。
青木のプレーをチエさんがコースの外から見守っていた。
スタートして間もなくチエさんは気付いた。青木の様子が変だ。
プレッシャーに押しつぶされそうな青木。
その時、青木の耳にチエさんの声が響いた。
「何やってんの!」
チエさんの一言が青木を変えた。
勝負の行方は最終18番ホールへ。
しかし、粘る青木を振り切り、ニクラウスはパットを沈めて優勝。
結果は2位に終わったものの帝王ニクラウスを最後まで苦しめた青木のゴルフを世界中が絶賛した。
あれから28年。青木は今もチエさんに支えられて闘い続けている。

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